2015年05月19日

「ART」@福岡市民会館

男子だって、面倒くさい。
複雑で単純な、繊細で大胆な「友情」という、しがらみ。

おそらくセルジュ(益岡徹)以外にはただの、白い大きなカンバスにしか見えない現代アートの絵の素晴らしさを、懸命に説明しているところから、物語は始まる。
何百万円もしたこの絵になんの価値も見出さない「俺様」なマーク(市村正親)。
遅れて登場するやっと結婚を決めた、マイペースで二人の間を右往左往するイワン(平田満)。
まるでお揃いのように、黒い衣装で決めているのは、仲が良いせいなのだろうか。
舞台は白い部屋。もちろん家具も真っ白。
そっと置いてある小物だけに不思議と、ぱきっとした色があり、時々その「真っ白な空間」はそれぞれの部屋に変化する。
三人の会話のメインテーマは「その絵(ART)は、芸術なのかどうか」ということ。
そんなシンプルなことで、穏やかな会話は言い争いに変化していく。

とにかく、この男子たちは喋る。
素敵なディナーの約束もする。
なのに、マークとセルジュは居丈高に言い合い、なぜかイワンには厳しい。
巻き込まれた優しいイワンは、悲しみで泣く。
喧嘩をしている二人なのに、ソファに座っている姿勢がユニゾンなのが、おかしい。
「ART」という形のない価値観で、彼らの関係はどうなっていくの?

小気味いいセリフが飛び交う舞台は、役者が達者でなければ絵にならない。
16年ぶりに再結集されたというオリジナルキャストは、その時よりももっとこなれているのだろう。
マークの傲慢さは市村が演じることでさらに自己主張が強くなり、自らをピエロというイワンは平田が演じることで「少し抜けている」悲しみがより表現され、マークと対等でいたいセルジュは益村の演技もさることながら、その佇まいも相まって、危うい三人組のバランサーであるということも教えてくれるのだ。

90分の上演時間。
この三人組は、それぞれがまた厄介な出来事を引き起こし、その度に喧嘩をし、少しずつ変化した関係を築き続けるだろう。
その余韻を感じさせるようなラストだった。
これが恋愛の物語であるならば、始まって終わるのかもしれないが、友情の物語は、壊れそうになってもまた、上書きされていく。
白いカンバスに、また新しい絵を描いていくように。

あぁ、そうか。
この三人が舞台に立っている姿こそが「ART」なのか。

作:ヤスミナ・レザ
演出:パトリス・ケルブラ
美術:エドゥアール・ローグ
舞台監督:加藤保浩



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2015年04月25日

継ぐ者 (THE INHERITOR)@新横浜スケートセンター

彼は、自らの演技で教えてくれた。
あの日の、突然の別れの意味を。

暮れも押し迫った去年の12月28日の夜、フィギュアスケーターの町田樹は世界選手権の出場を辞退し、競技生活から引退する旨を告げた。
学業に専念するとの本人の意思により、当分の間スケート靴を履いている彼を観ることは叶わないのだと諦めていたところに、PIW横浜へ出演するとのアナウンスがあった。
もともと純粋芸術としてのフィギュアスケートを追及したいと言っていたこともあり、今後はどのようなスケートを滑るのだろうと、彼のファンならずとも期待を胸に新横浜スケートセンターに集まった観客たちは、氷上の上に、まるで鳥が今から羽を広げるがごとくポージングした町田樹の姿を観て、息を飲んだ。

その清潔な立ち姿は、バレエダンサーを思わせる黒いレオタードに、柔らかなフリルのついた袖口や裾だけモスグリーンの、白を基調としたカシュクールを羽織った衣装で、今までのフィギュアスケートの華やかなものとはまた違う、おごそかさを感じさせる。
氷上をそっと照らすライトは、緑色。
それは、深い森のようなイメージだった。
静かに、そして羽ばたくように、すっと滑り出した彼の後ろには、穏やかに流れるピアノの調べ、シューベルトの「4つの即興曲 作品90/D899」中の第3曲。
6分弱ほどあるこの曲を、あえて編集せずにそのまま使うということに、まずは驚く。
試合のプログラムのうち、長い演技時間のFPは4分30秒であり、それを滑りきることだけでも大変な体力を使うのに、それよりも1分以上も長い曲をアイスショーで使用したという話を、ワタシはあまり聞いたことがなかったからだ。
もう一つの驚きはジャンプ。
6種類のジャンプがすべて組み込まれている。
現役の選手が、ショーのために滑っているコンペのプログラムではないのに。

今までより助走をつけずに飛ぶジャンプは、アクセル以外はトリプルで飛び、着地もほぼクリーンだった。
もちろん、つなぎといわれているスピンやジャンプの間のスケーティングも、ただ滑っているだけではない、細かいステップが入っている。
穏やかなピアノの音色に騙されているけれど、実は強靭な振り付けではないのだろうか。

静かに始まった町田樹の舞台は、静かに終わった。
氷を削る音が、翼をはためかせる音に聞こえた。
ワタシの観たものは確かにフィギュアスケートだったけれど、フィギュアスケートではなかった。

6分という時間は、あっという間だった。
よくある常套句ではなく、本当にあっという間だった。
ライトが消えた瞬間だけ崩れるように膝をついた町田樹は、改めてスポットが当たった時は背筋を伸ばし、四方へ向いて丁寧に挨拶をし、ゆっくりと舞台裏へ戻っていった。
普段は姿を見せてくれない美しい鳥が、気紛れに人の前に出て美しく舞い、終わればそっと羽を閉じ、森へ帰っていくように氷上から消えた。

プログラムが始まってから少しの間は、ジャンプが決まれば拍手をし、スピンが終われば拍手をしていたけれど、途中からそれはやめた。
彼のテクニックの、一つ一つの成功のためでなく、演技がすべて終わった後の、幕が下りるその前の拍手の方が、この作品にはふさわしいと思ったからだ。

あの日の、突然の別れを、受け入れざるを得なかった。
この演技がしたいのであれば、もう彼はアスリートである必要がないからである。
思えば14-15シーズンのFPである「交響曲第9番」を観た時から、予感はあったのだ。
彼はもう、試合という舞台にいる人ではないと。

あとどれくらい、彼は氷上にいてくれるのだろうか。
あとどれくらい、自ら振付けたプログラムを表現してくれるのだろうか。
それが長い時間ではないことを、ファンは知っている。
だけど、まだ誰も観たことのない作品を作ってくれるであろうことも、ファンは知っている。
希望と期待を込めて。


振付:町田樹
音楽:Impromptu in G Flat, Op.90/3, D899/3
作曲:Franz Peter Schubert
演奏:今井顕
編集:矢野桂一
衣装:伊藤聡美

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2012年11月09日

「ジェーン・エア」@博多座

女の半生 ダイジェスト。

そうか、このジェーンは松たか子だったから、さらに舞台が素晴らしくなったのか、と思えた芝居だった。
 一幕は長い。何しろ八十五分ほどある。そして松たか子は出ずっぱりなのだ。幼いジェーンが理不尽な大人たちにいじめられている時も、親友と永遠の別れを経験している時も、大人になったジェーンは、傍らにずっといて、淡々と物語を紡ぎ続けている。
 黒髪に黒い地味なワンピースの松たか子は、芝居が続くほどジェーンになっていき、語り、歌い、出会い、恋をする。そして、長い女の半生は二幕で終わる。
 イギリスに行ったことがある人ならわかると思うけれど、春や夏はさわやかで美しい。六月の日暮れなんて夜の九時だ。しかし打って変わって、秋や冬は寒くて絶望を感じるほど暗い。真昼でもどんよりとした空、あっという間に暮れていく太陽。そんな季節感を見事に舞台美術は表現している。
 しかも、ベッドやお墓の十字架やテーブルや机がステージに登場するタイミングや位置だけで、時間軸は変わっていく。まるで絵巻物をみているような感覚。するすると舞台が頭の中に入っていく。大きな暗転がないというのは、こんなにもストレスがないものなのだろうか。
 ステージ後方には客席が作られており、ここは教会なのかと思わせるような木の椅子に座って、芝居を観ることができる。演者を後ろから観る席では客観的に「一人の女の人生」を感じられるようにしつらえられたのか。そしてオーケストラピットに張り出した舞台は前列の客席に非常に近く、主観的に「一人の女の人生」を感じられるようにしつらえられたのか。どちらの席に座っても、ジェーンを感じられると思う。
 幼いジェーンを演じた子役たちも素晴らしい。他の演者さんたちも。一人で何役もこなしているので、こぢんまりとした集団なのだが、それ以上の厚みを感じるステージだった。
 

最後に。
ジェーンの伴侶となるロチェスターは、色っぽくて傲慢、そしてダメダメで、女子には魅力的な男だけれども、付き合ったら途中で疲れてしまうだろうなぁ、という人だ。それを橋本さとしが、さらに魅力的に演じている。ワタシは一幕で、ちょっと好きになった。二幕ではもう、ジェーンにおまかせしますって感じになったけれど、ね。
 

原作:シャーロット・ブロンテ
脚本・演出・作詞:ジョン・ケアード
作曲・作詞:ポール・ゴードン
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2010年02月18日

「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」@ももちパレス

人の頭の中を覗けたら、どんなに面白いだろう。
好きな人の頭の中、軽蔑している人の頭の中、目の前で鼻の下を伸ばしている人の頭の中、この国を動かしている人の頭の中・・・。

葛河梨池(光石研)は何度も何度も自分の本の書評、それは少なからず本人にとって愉快でないもの、が載った新聞を投げ捨てている。きっとその作品は作家にとって、新しい形でチャレンジしたものだったのだろう。そんな彼を支えている人形作りにいそしむ妻、葛河悦世(村岡希美)、人形作家の梶原(加納幸和)、下着を履かないお手伝いの希緒(内田亜希子)、作家梨池担当の野口(池田鉄洋)、バーの客の満智子(小島聖)などが、黒い空間の中、入れ替わり立ち替わり、現われては消えていく・・・。
いつものように、あらすじから書いていこうと思ったのだけど、時間軸の入れ替わる舞台において、筋を追うということが、非常に困難だった舞台。今ワタシは、どの一瞬の梨池を見ているのだろう、いや、まだこの梨池は、この状況では出現していないものなのかもしれない、頭の中で、本来あるはずであろうまっすぐな筋が、状況でまったく変わっていく。しかも恐ろしく変化があるはずの舞台なのに、セットは机とその上にある書類ケース、椅子くらいなもので、そのセットがくるくると存在を変えていくのだ。
とにかく一時の、気も抜けない。抜いたが最後、もうこの舞台から置いていかれる。長い長い台詞もまた、状況で立場を変える。2時間、ジェットコースターのような舞台。仕事終わりで疲れている観客もいるだろう、難解な作品が嫌いな観客もいるだろう、したり顔で芝居を語りたい観客もいるだろう、でも観客のことなどお構いなしに、ストーリーは進んでいくのだ。
しかし、舞台の途中で「あれ、もしかしたら、最後のオチはそうなのでは?」とうっすら気がつく。しかしそう考えながらも、そうだ、ちゃんとタイトルに書いてあったのだから、しょうがないのだ、とまたも自分を納得させながら、観続ける。というか観続けないと終わらない。

ワタシ自身、この「阿佐ヶ谷スパイダース」は初見であったので、正直、ワタシ好みではない気色の悪いシーンも台詞もあった。なんでそこだけアングラチックな風味にするのだろう、と思った時もあった。でもそれも含め、きっとこの舞台は長塚圭史の、壮大な実験室だったのだろう。しかもこの実験は上質な役者が揃えないと、うまい化学反応はできない。そう考えると、この舞台に出ている役者陣は、よい化合物になっていたのだと思った。
個人的には小島聖が、いい女優さんになったんだなぁ、と思った。アイドルのようだった昔の印象と、舞台の上に寝そべっていた印象は、まるで違っていた。

アフタートークで長塚氏が「観客をなめない舞台を作った」と言っていた。「賛否両論、受けている」とも言っていた。最近、そんな舞台が少なくなったなぁ、と思っていたから、単純にうれしかった。
わかりやすくて、批判もされない舞台なんて、そんなの、芸術でもなんでもない。「その舞台、観たけど全くわかりませんでした」というのも、立派な感想なのだから。

最後に。
開演前、ワタシの席のすぐ後ろの、ミキサー宅の隣に長塚氏が座っていたので、ちょっとだけテンションがあがったのは、内緒です。


阿佐ヶ谷スパイダースpresents
作・演出 長塚圭史

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2009年12月04日

「砂の楽園」@甘棠館Show劇場

安部公房の「砂の女」を思い出していた。

さらさらと軽やかに変化し、無機的なものであるのに、人がどれだけ抗おうと、すべてなかったことのように、意志をからめ取っていく砂。
そしてこの芝居の舞台は、全ての生物の「生きていく力」を、吸い取って干からびさせていく砂漠。

向かい合わせに座った客席から観る舞台は、さながら理科の観察箱のようである。
そう思わせる区切られた舞台空間には、客席にはない砂が、これでもかと敷き詰められている。
砂の上の四角いテーブル、パイプ椅子、何度も書いては消してを繰り返されてきた、薄汚れたホワイトボード、そして揃いのユニホームを着た「砂漠監視隊」の7人の男たち。ワタシたち観客は、その7人の「砂漠での日常」をじっと見つめている。
ばらばらな種類のカードゲームをしていても、これといって問題もなく進んでいくトランプ、毎週木曜はカレーだという食事、ダイレクトメール以外は送られてこない郵便。
そんな淡々とした日常の中で、隊員達の話題の中心はムナカタ(美和哲三)が夢の中でみたという女の話が、隊員の中でもちきりになっていくのだが・・・。

とにかく、舞台の上はただただ、繰り返されていく変わり映えのない日々なのだ。
しかし、積み重なる毎日が、少しずつ7人の精神的なベクトルを変えていく。
そして、人間がゆっくりと普通の精神でなくなっていく様を、ワタシはただ観続ける。
ほんとに異常なのは砂漠なのか、彼らなのか、もしかしたら観ているワタシなのか。
「砂漠でない、かつて日常であった場所」に、つながらない電話を必死でかけ続けるハセガワ(手島曜)も、「砂漠でない、かつて日常であった場所」に、新しい仕事をあっせんしてもらおうと親戚に連絡していたトオヤマ(吉野一統)も、気がつけばこの「砂漠である日常」を「当たり前の日常」として受け入れ始めるのだ。
そして、そのことを心の中でほっとしながら観ている自分も、この砂漠に飲み込まれている。
ホワイトボードに書かれていることが、かすかにずれているような気がしても、それはこの世界に、さして重要なことではないのだ。

ワタシは女なので、同性しかいない、砂漠という閉ざされた空間で「異性の夢」を見ることが、生活の中でこんななにも重要なファクターになり得るのだということも面白かったし、おそらく男性の中にしかないであろう感覚を女性である中嶋さとが演出したというのも、面白かった。
ここに登場する7人の男は、おそらくどの役も、年代は違えど「ただの男」だ。
あまりに普通すぎるのに、芝居が進むにすれ個性を感じるのは、演出の力もあるだろうが、出演していた役者個人の力が、それぞれ強いこともあるのだろう。
普通を普通に演じること、それは普通なことではないのだ。

最後に、朝顔は咲いた。
しかし日々は、またループされていくのだろう。


劇団爆走蝸牛 第5回公演
作 宮沢章夫(遊園地再生事業団)
演出 中嶋さと
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2009年09月14日

奇妙奇天烈ファンシーハウス」@湾岸劇場博多扇貝

声高に男女同権だとか、差別をするな、とか言われるけど。
そして、それはそれで正しいけど。
一つだけ、女性は男性より圧倒的な権利を持つ。
それは「人をこっそり、殺せる」権利。そしてそれは、罪にはならない・・・。

男に貯金通帳を持って逃げられ、気がつけば5日間も職場に出勤してないユナ(中原智香)は、トイレに座っていた。ユナは妊娠検査薬に印がついたことを確認すると、おなかの子を処分することを考える。お金のないユナは鞄に入っていた「ファンシーハウス」という名前の店でてっとり早くお金を稼ごうと、風俗で働くことを決意するも、この店はユナの思っているような店でなく「日本一小さなテーマパーク」であった。そしてそのテーマは「カジノ」。
エキセントリックなディーラー(富田文子)、カジノなのに子供が従業員、チェリー(中村雪絵)とジンジャー(三坂恵美)。お金の必要なユナは、ミステリアスなこの店で働くことにする。
ただ、このカジノ、お金はかけない。かけるのはお金よりも、もっともっと大切なもの。

こんなテーマパークに行かなくても、この世は充分、賭場なのだ。
お金持ち?美形?類まれなる才能を持っている?国籍は?人間にとって「当たりの親」から産まれ落ちたかどうか、赤ん坊が「おぎゃあ」と泣いた瞬間から、もう人生を賭けたギャンブルをやっているのでる。
劇中、ユナはもう後のない男が、ついに「我が子の命」まで賭けようとしているのを見て、ついイカサマをしてしまう。もちろん、命を賭けているのだから、自分の余命を縮めることになる。しかし、観客は思うのだ。「あなたは人の子の命を助けたのかもしれないけど、自分がお金を稼いでやろうとしていることは、自分のおなかの子の命を奪うことなのでないのか」と。
もちろん、ユナにイカサマをされて納得のいかないディーラーは、ユナと勝負をする。この勝負の行方は、一体どうなるのか。

かわいいキャラ、かわいいダンス。かわいい歌声。
うっかり乗せられるけれど、中村雪絵の脚本や演出は、そこをちゃんと目くらましにしている。水玉の衣装は、かわいさを通り越して気持ち悪ささえも感じる。
「妊娠・出産・中絶」という、女性だけが持っている切り札を、少しだけ毒を交えて描いている。そう、このジョーカーを、あまりにも大事にしない女性が増えている、ということを。
悪い男にだまされた可哀そうなユナ、という前提が崩れた台詞には、はっとした。
そうか、このファンシーハウスに来る前から、ユナはギャンブラーだったのだ。

セットは真ん中の洋式トイレがメイン。
人生を決める場所が、こんな場所であることも、また皮肉なのだろう。
最終的にユナの決める決断が、幸せなものかどうかはわからない。
親にとっても産まれ落ちた子がオリンピックに行ったり、ノーベル賞を取ったりするような「当たりの子」になるのかどうか、それもまたギャンブルなのだから。

最後に。
コーラの飲みすぎは、病気になっちゃうよ。
体を張った笑いは、大好きだけど、ね。


劇団ぎゃ。第13回公演
作・演出  中村雪絵


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2009年09月09日

「ダンス オブ ヴァンパイア」@博多座

こんな感じ、昔観たことあるなぁ。
濃厚なキャラ、ちょっとしたお色気もあり、気が付いたら巻き込まれている感。
訳がわからないまま終わっても、それはそれでOK、みたいな。

何が面白いって、ヒロインの設定が「18歳というお年頃なのに、お風呂に入るしか楽しみがない」というサラ(大塚ちひろ)。ほかにも、そんな彼女の入浴シーンをうっかり見ちゃって、一目惚れするヴァンパイア・ハンター、アブロンシウス教授(石川禅)の助手アルフレート(泉見洋平)。二人がやっと辿り着いた極寒のトランシルバニア地方の、とある村で首からニンニクをぶら下げて踊る、サラの両親の宿主のシャガール(安崎求)とその妻レベッカ(阿知波悟美)。シャガールから色目を使われている女中マグダ(シルビア・グラブ)。そして、この村の城主である、ミステリアスなクロロック伯爵(山口祐一郎)は、最初から漆黒のマントを翻して登場。この人がヴァンパイアじゃなかったら、一体誰がヴァンパイアなんだ、といういでたちで。そしてサラを城の「真夜中の舞踏会」へ誘う。しかもサラは、この手の話にありがちな「騙される訳」でも「さらわれる訳」でもなく、自分の意思で城に向かうのだ。
あぁ、なんて強烈なキャラばかりが出てくるミュージカルなのだろう。
伯爵の下働きの男、せむしのクコール(駒田一)なんて、1幕と2幕の間の休憩時間まで雪かきをしているのだ。

変な話だが、このミュージカル、かつての土曜8時のバラエティ番組を観ているようなのだ。実際ストーリーも、極寒の地で道に迷った教授がかちこちに凍っているのを助手が見つけ、溶かして動くようにするという、笑いの王道のようなシーンから始まっていく。
けれどもさすが、ミュージカル。役者も歌もダンスも舞台美術も、みんな豪華。
とてつもなくゴージャスな、コメディなのだ。

ヴァンパイアの山口祐一郎は、立っているだけで妖しさや切なさを感じる。やはり、彼が登場すると、舞台はきりり、と締まる。
ワタシが今まで観劇してきた中では「レ・ミゼラブルのマリウス」や「ミス・サイゴンのトゥイ」のイメージが強い泉見洋平だったので、今回の役はとても新鮮だった。かっこ悪い、情けない役もこなす新しい彼を発見できたのは良かった。
もちろん、無防備な小娘の大塚ちひろ、ラストがキュートなロッキン阿知波悟美、なやましげで色っぽいシルビア・クラブ、ラップのような言葉数のやたら多い曲を朗々と歌い上げる石川禅(そういえば、この教授と助手のコンビは新旧マリウスだった)など、素晴らしい役者たちの力量があるからこそ、喜劇はおかしみが増していく。
中でも伯爵の息子ヘルベルト(吉野圭吾)は面白い。端正な顔、均整のとれた体で「あ、やっぱり、そっちの組合の人?」を演じている。
また、ヴァンパイアの心の動きを表現するダンサーたちの中でソリストとして、新上裕也が踊っている。力強くも繊細な(ありきたりだが、妥当な言葉だと思う)ダンスは、明るい太陽の下では決して生きていくことのできないヴァンパイアの存在を表現していた。

ドイツで生まれたこの作品、面白いだけでは終わらない。「愛するものを手に掛ける切なさや、永遠の命の哀しさ」も切々と歌われている。しかもラストはちょっとだけダークなのだ。そしてきっとそのシーンを観たら、ワタシが思ったようにあなたも思うだろう。
「教授ー、うしろー、うしろー」ってね。



音楽     ジム・スタインマン
脚本・歌詞  ミヒャエル・クンツェ
演出     山田和也

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2009年04月20日

「兄弟舟」@湾岸劇場 博多扇貝

観劇しながら、学生の時聴いたラジオの話を思い出した。山の手線に乗った人で、あきらかにカツラだと、同じ車両にいた人すべてがわかるような男性が座席に座っていた話。
なぜにカツラとわかったかって?その人の髪の毛、極太の黒の毛糸製だったから。

最初はわからなかった。わざと?それとも「そんな体」で観てくださいっていうお芝居のお約束?若葉(中嶋さと)は、ドンキホーテで安く買ったようなパンチパーマのカツラ、顔の残念な場所に黒子、サイズの大きめなダサいスラックスをはいて、競艇によくいるたちの悪いおっさんのような風体で、歯医者の待合室に入ってくる。えぇ、ちょっと待って、これは笑う状況?受け入れる状況?芝居が始まってすぐから、ワタシの頭はぐるぐる回る。しかし同じように順番を待っている若い男たちがくすくすと笑い始めてから、「あぁ、堂々と笑っていいのだ。これは芝居の中で『芝居をしている』、だからあの人は女なのだ」と安心して芝居に入り始めると、次に「怖いいでたち」の長身の男、山田(椎木樹人)が登場し、さっきまで馬鹿にしていた男たちを力強く殴りつけ「この人は伝説のやくざ」なのだと教える。
そこでまたワタシは混乱する。この人はださい格好で、女性で、でもやくざっていう役なの?それとも、それこそが舞台上のお約束なの?
もちろんお芝居は基本フィクションであり、現実ではない。でもどこからが「フィクションの中のリアリティ」であり、どこからが「フィクションの中のフィクション」なのか、わからなくなる。そこへ山田が自分の女、美幸(雪丸朋美)を連れてきてくる。アルコールで顔が常に赤い、少々おつむの弱そうな女こそが、この芝居のリアリティなのか?いやいや「伝説のやくざ」だという女の命を狙う、臨機応変に顔に傷を描く組長(美和哲三)や小さなラジカセで「アローン・アゲイン」を流しながら行動する殺しや(Mr.BUNBUN)こそが、リアリティなのか、最初から「王様は裸だ」とばかりに、若葉のおかしさを笑っている若者たち(橋本幸拓・どん太郎)こそがこの芝居のリアリティとして描かれているのか?

とにかく、どこからが本当で、どこからが嘘なのかわからない。
どこからが芝居で、どこからが芝居の中の芝居なのか、わからない。
混乱しながら、確かめながら、ワタシは必死でストーリーを追っていく。
久しぶりに「理解のできない」舞台を観ていた。

パイプ椅子と長机を上手に使い、そんなには広くない舞台のシチュエーションを淡々と変えていく演出の妙が今回は素晴らしい。上手と下手にある扉で、残酷な日常とふわふわとした非日常を使い分けている。ただそれだけに、自分の座っていた場所から、肝心の場面を観ることができなかったのが残念だった。それは多分、この芝居の要のシーン、「やくざごっこ」で遊んでいた若葉が、やくざから女という素に否が応にでも引き戻される(それは若者のセリフで認識はできた)、芝居を観ることができなかったからだ。
この舞台を、正面から観られなかったことが、残念だった。

最後に。
後味は悪かった、非常に。
でも「後味が悪い」は褒め言葉なのだ。そういう芝居だったから。
この舞台、個人的には受け入れづらい。すべてがざらざらとしている。しかし誰しもの口当たりが良くなるようにと、研磨などまったくかける気のなかった感覚、そこはワタシは好きだった。




劇団爆走蝸牛 第3回公演
作 岩井 秀人(ハイバイ)
演出 中嶋さと
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2009年03月15日

「ボスがイエスマン」@ぽんプラザホール

平均年齢22歳の劇団。
いただいた公演チラシには、そうこの劇団を紹介してあった。
若けりゃいいのか、とおばさんは思った。
でも、勢いがエッセンスとして必要な作品もあるんだよなぁ、くやしいけど。

売れないタレントを大事にしてくれないプロダクション「イノセント」から独立を企てている若手たちの、事務所開きの日。
仕事で怪我をしたのに見舞いにすら来ないような社長にばれないように、大倉(石橋整)と宮崎(多田香織)、そして未華子(横山祐香里)は、かつてアトリエに使われていた半地下の部屋を片付けている。新しい事務所「ビッグタワー」の拠点となるこの場所に、続々と売れないモデルの小出(椎木樹人)や清田(どん太郎)、ロッカーの比留間(松野尾亮)、そしてなぜかスカウトされたこの業界とは無縁の木部(阿部周平)たちが集まってくる。
しかし、この独立劇の主人公の一人でもある、前の事務所のマネージャーでありこの新事務所の社長になる予定のオオワダさんはいつまでたっても来ない。しかも、呼んだはずのない売れっ子タレント水川(眞島左妃)もこの場に登場してしまい・・・。

今回はDD(ドラマドクター)としてMONOの代表でもある土田英生氏を迎え、今までの演出とは違う芝居に挑戦している。
頭から伏線がたくさん隠れている舞台は、この劇団の面白さの一つでもあるのだけど、今回もそれが存分に生かされていて面白かった。後半、伏線の一つ一つを拾いあげていく作業も、観ている側の人間を飽きさせない。
半地下という舞台設定も、シチュエーションコメディとしての「固定された舞台」に、「さらなる閉塞感」を感じさせて、笑いを増していたように思う。
川口大樹の書いた脚本の、7人の登場人物の中でも、前向きでやる気があり頑固な方が女の子で、簡単に流されて、あわよくばいいとこ取りしたいと思っている方が男の子というリアルさもよかった。劇団の中でも、もしかしたらこんな風なのかな、などと意地悪な想像をしながら観劇していた。

DDのアドバイスを受けながら、というこの劇団としての新しいチャレンジ。ここからは個人的な趣味かもしれないが、今回の舞台、ワタシには少しもの足りなかった。舞台がなんだかとてもお行儀がいいような印象がしたのだ。前回観たものがすべてではないと思うし、好き嫌いもあるのだと思うが。といって面白くないわけではないのだ。テンポもいいし、ほどよいバランスの笑いもある。
今回の舞台「平均年齢22歳の劇団」の、この年代ならではの勢いや向こう見ずさが、もう少しあってもいいのかもしれないと思った。もしかしたらこの平均年齢は、劇団の武器なのかもしれない。
今回のチャンレジを踏まえ、また新しく自分たちの演出で公演される次の舞台が期待される。スマートさと勢いとが、どのような化学反応を起こすのか。

追伸。
一応、芸能事務所なんだからさ。
せめて、携帯電話はつながる場所にした方がいいと思うよ、うん。



ぽんプラザホールDDシアター
万能グローブガラパゴスダイナモス第8回公演
DD 土田英生
作・演出 川口大樹

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2009年02月24日

「テーブルマナー〜週末の食卓は修羅場〜」@イムズホール

「ヒメゴト」。
秘密にしておかなくちゃいけないことほど、ホントは誰かに言いたくなるんだよね。
なぜだろう。

年ごろの割にはいけてない格好で、髪もぼさぼさな女が一人、花の束を抱えて部屋に入ってくる。女の名前は加代子(大和田美帆)、寝たきりの母親の介護をたった一人でやっているらしい。母娘二人で暮らしているには不必要なほど大きな食卓が、その部屋の中には鎮座している。そこへ、義理の姉である理香(佐藤真弓)がやってくる。週末に息抜きの旅行をする義妹と母親の世話を交代するために、加代子の兄でもある夫の大輔(市川しんぺー)とともに、この家を訪れたのだ。しかし、その旅行相手が、姉の美智子(島田歌穂)の夫で義兄の武士(松尾貴史)であることを、理香に告白したところから、この家の中には不穏な空気が漂い出す。そこに加代子のことが好きなのか、いまいち煮え切らない獣医の男、健(柳浩太郎)や、不道徳な「義理のキョウダイ」の状況が許せない理香の呼び出した美智子もやってくることになってしまう。
この部屋のテーブルで、6人ははたして快適なディナータイムを過ごすことができるのだろうか。

男としてはたいして格好良くもなく、着用しているパジャマの趣味も悪い。そんな武士の「どうしようもないだらしなさ」が優しさに見える瞬間に、この家の姉妹は、はまっていくのだろう。窮屈なくらい生真面目で、その性格からちょっとした神経症まで起こしている理香、実の妹に夫を寝取られた仕事命のエキセントリックな姉の美智子、ずっと寝たきりの母親の世話をしてきた健気な妹の加代子と、それぞれしっかりしているようにみえる女性たちが。
夫としては家で何もしなくても甲斐性のある大輔やつまらないほど安全な健の方が、きっと男として立派であると思うけど、ワタシも女性の一人として、うっかり武士にはまってしまう気持ちもわからなくはない。ただ、舞台上の不毛な関係はもっと「しっちゃかめっちゃか」でもよかったのではないか、とも思う。一人の男を取り巻く女性たちの関係は、意外に乾いていて、あまりなまめかしさを感じなかった。もっともっと荒れたディナーを客観的に見せられるのかと思っていたので、その点は拍子抜けするところでもあった。

松尾貴史が登場するまでとしてからは、舞台の感触が変化して、しゅっ、と締まったように思えた。やはり存在感は強い。島田歌穂はお行儀のいいイメージがあったので、もしワタシの義理の姉がこんな人だったら、厭だなぁ思うくらいのアクの強さが新鮮だった。
暗転の度に大きなテーブルの置かれている角度が変化するのは、登場人物の人間関係を表しているということなのだろうか。ただあまりにも淡々と進んでいく舞台に、その変化から絡まった人間関係の不可思議さは、よく伝わらなかった。

最後に。
やっぱり、不倫は面倒だ。
それが家族の中でなら、さらなり。


AGAPE store ♯13
作:アラン・エイクボーン
翻訳・演出:G2
上演台本:桝野幸宏



posted by ササキアキコ。 at 00:00 | TrackBack(1) | 劇評。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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